アテルイ紀行 1

小笠原 矗


岩手日報記事写真 2002年 「みやぎ聞き書き村」の仲間のM子さんから「この人は貴方ではないですか?」と古い新聞記事のコピーが届いた。
802年(延暦21年)蝦夷(えみし)の首長アテルイとモレが、河内の杜山(椙山とも)で首を刎ねられて没後1200年になるのを記念して、彼の生活場であった胆沢・江刺地区(現在は水沢市、前沢町、衣川村が合併し奥州市)でえみし文化ゼミナールを開催した。この時、当えみし学会でアテルイの衣装を復原し、私が着せてもらった。届いたのがこの写真が載った2002年9月の地元紙の岩手日報であった。

 「みやぎ聞き書き村」は一昨年(04年)の12月12日に設立され、私も誘われ参加しているサークルである。「聞き書き」は庶民の生活を記録しようと有志が集まり今第3集にとりかかっている。私は「仁丹の大礼服」と「東京裁判を傍聴した女学生」をこれまでに聴き書きした。聞き書きは構えないで自然体がいい。自分で育ってきた記憶の風景が語り手の記憶で立体的になったり、そして私の前の時代の厳しい風景だったりする。時の風景が巡り人が行き交いそしてつながり私がいる。このつながりが消えようとしている。自分たちが何を受け継ぎ何を伝えようとしているのか解らなくなっているのが現代ではと思う。歴史のスパンを500年や1000年にしたり、または50年100年することで解らなければならないことが見えてくると思い「えみし」とそして「聞き書き」になった。

 えみし学会で育てられてきたお陰で一昨年の8月下旬は歴史研究会の方々を盛岡から平泉までご案内した。昨年の5月の中旬は東京の駒場中学校の皆さんを志波城、安倍館をご案内した。M子さんご夫妻は仙台の方で岩手の観光地は少しは見てきたが、人があまり訪ねない裏の舞台というか正史に載ってないような所を見たいというので昨年の11月3日ご案内をした。つれ合いにも同行願い1泊2日の4人の旅は11月3日、JR平泉駅からM子さんの自動車をご主人が運転しての出発となった。NHKの大河ドラマで平泉は「義経ブーム」、5月の義経公東下りでは1日だけで24万人の観光客が押し寄せた。人の洪水である。平泉は人口8800人の町。

接待館 発掘現場 2005年 私たちはまず「柳の御所資料館」で最近の発掘成果と平泉の史跡の位置関係を頭に入れた。平泉は毛越寺分17坊と中尊寺17坊とがあり、毛越寺は平らな地に中尊寺は山にある。中尊寺の関山を越えると衣川である。この道筋が関の道である。西は白川の関から東は津軽の外が浜までの中央が衣の関である。古人は中央を意識していた。この古道の東脇が接待館(秀衡の妻が旅の人を接待した所)である。昨年(05年)の発掘で武具が出土したことからこの一画に義経の屋敷があったのではないか。テレビドラマの「義経」とあいまって関係者も歴史ファンも色めきたった。義経は藤原基成の居館と言われる衣の館に住んでいたとされているがこの館跡まだ特定されていない。いずれ関の道を挟んだ衣川の川筋であろう。

 ここを後にして平泉の前の時代(安倍氏)の泉ガ城へ。別名、業近の柵。前九年合戦で阿倍貞任はここから上がる火煙を見て逃げる。これを追う源義家が「衣のたてはほころびにけり」と、勝ち誇って呼びかけたところ、貞任は馬首を返し、「年をへし糸の乱れの苦しさに」と即座に前句付けで返したので、追われつつも心の平静さを失うことのない貞任に感銘を受け、義家はつがえた矢をはずした という。(古今著聞集)。一首坂を登ると北の支脈の稜線になる。ここから約100キロメートル北の方向に岩手山と姫神山を望めるがこの日は霞んで見えなかった。厨川柵(盛岡)はその岩手山の南麓にあたる。安倍氏の本拠、衣川村から盛岡までの奥六郡が見渡せるポイントである。

 衣川村の北の稜線を越えた所が胆沢の地でアテルイ。北と南の稜線に囲まれた所が次の時代の安倍氏の本拠地。南の稜線をまたいだ所がそのまた次の時代の藤原氏で中尊寺、毛越寺、柳の御所がある。南の稜線を越えない所、衣川の北岸が今発掘中の接待館である。 稜線の付け根が奥羽山脈であり国見山(衣川村)がある。ここを通ってきた武内宿禰が胆沢の地を眺望して奏上している。「東の鄙の中に、日高見国あり、その国の人、男女並に椎(かみ)を結(あ)げ身を文(もどろ)けて、勇み悼(たけだけ)し、これを総て蝦夷という。また土地沃壌(こ)えて広し。撃ちて取りつべし」と日本書紀の景行天皇27年の条にある。ここから東北地方の悲劇の宿命が始まる。

 アテルイの名は桓武天皇時代の789年(延暦8年)賊帥夷(ぞくすいい=蝦夷の首長)阿弖流為(アテルイ)として登場する。生年は不明だが後に戦うことになる坂上田村麻呂は32歳なので760年前後に生まれたと考えられる。古代国家から侵略されやむをえなく戦わなければならない時に、各地域の蝦夷のリーダーとして選ばれたのがアテルイであった。信望の厚い頼りになる人物で、そして戦略家で敵の情報にも通じていた人物ともいえる。出生地は胆沢地域だと思われる。現在、水沢市常磐地区に「跡呂井」という地名が残っており、江戸時代には「安土呂井村」と言った。アテルイとアトロイの音が似ているのでこの辺かもしれません。

 アテルイは胆沢・江刺を本拠地に北上川上流域の蝦夷とも連合し、日高見同盟のようなものを作り、その首長であった。朝廷軍はこの日高見の国を3回にわたって都合19万2千余りを投入し侵略したのである。最後は征夷大将軍坂上田村麻呂に盟友モレ(母礼)と500余人の蝦夷とともに投降したのである。

 坂上田村麻呂は胆沢から多賀城をへて平安京にアテルイとモレを連れていき、公卿(高官)たちに「胆沢の族長は武勇と統率力に優れれいるのに抵抗することもなく降伏した。2人を許し、蝦夷を服従させた方が国の為」と助命を願い出た。しかし、朝廷の蝦夷に対する憎しみと偏見は変わらず「蝦夷は獣のような心をしているので、いつ心変わりするかわからない。2人の野蛮人を助けることは野に虎を放して置くようなもので、災いの基となる」と聞き入れなかった。今の大阪府枚方市で斬刑。時に延暦21年8月13日と伝えられる。

 平泉駅前を9時半に出発し柳の御所資料館、接待館、関の道、長者ヶ原廃寺跡、泉ヶ城、衣河関跡,一首坂を巡り昼食は衣川村の北の稜線の東端にある国民宿舎「サンホテル衣川荘」でいただいた。5階のレストランから西を除いた三方が見渡せる。北はアテルイの本拠地とされる胆沢・江刺の地で沃野が広がっている(現在のJR水沢駅一帯)。北上川をはさんだ東は西行が「聞きもせずたばしね山の桜花吉野のほかにかかるべしとは」「ねがわくば花の下にて春しなんそのきさらぎの望月のころ」と詠んだ束稲山。南は瀬原古戦場を手前に長者が原廃寺跡、接待館、衣川、高舘、関山中尊寺、月山が眺望できる絶好の地である。

 この絶好の地が第3の営(たむろ)跡で、征夷大将軍紀古佐美はここからアテルイ勢を窺っていた。桓武天皇時代の789年、征夷軍(朝廷軍)は三つの営に5万余の兵を布陣していてこの東端の第3の営から蝦夷の地に出陣していった。巣伏せの戦いである。この年の戦いは蝦夷の大勝利に終わる。

 11月3日、全体の地勢を見るため束稲山に向かう。束稲山は連なっていて西よりに経塚山がある。泰衡がお経を埋めたという伝承からこの名が付いた。このお山に登ることにする。登山口の駐車場から歩いて約10分で頂上の物見櫓に着く。ここは前沢町分になる。櫓からもう少し歩くと体内巡りの岩や3000本の桜が植樹され、「西行桜森の公園」として散策コースが整備されている。櫓に立つと衣川、営跡、胆沢平野が一望できる。眼下をゆっくりと蛇行した北上川が流れている。武内宿禰が「土地沃壌(こ)えて広し、撃ちて取りつべし」と奏上したのは奥羽山脈の衣川村の国見山からだが、北上川を挟んだ反対のこちら側からでも地勢がわかる場所である。

 いつも展望台や峠に行って不満なのは立木が成長して展望の角度が狭くなっていることである。古道の峠は杉で覆われほとんど眺望ができなくなっている。昔の峠は牛馬の放牧地だったり草刈り場であったりして遠くは岩木山、鳥海山。近くには岩手山、姫神山、早池峰山が見えた。峠を幾つも越え峠の標高が低くなってくると里山が近かった。秀衡が頼朝に追われ比内郡贄(にえ)の柵に落ちのびる鹿角街道に「車走りの峠」がある。盛岡の北約50キロメートル、西根町と安代町にまたがる七時雨山の南の中腹の峠である。ここの眺望は素晴らしい。歩いてきた道とこれから歩く行く手がはっきり見える。マンダ並木(科の木)の古木があり、傍らには水場があった。マンダはマダとも言い風雪に耐え四方に伸ばした幹は旅人の道標であった。ここで一休みした康衡主従は平泉に最後の別れを告げただろう。峠に立つと郷愁にかられたり古に思いを馳せたりする。「土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」とならないのは縄文の血が濃いから。今は古道は林道で寸断されたり、杉の植林で消えてしまった。峠の話しで道草をくってしまったようだ。かつての巣伏村の古戦場に新幹線水沢江刺駅がある。新幹線は古戦場を縦断して走っていて、盛岡、仙台間を新幹線で通勤していた頃は車窓から古戦場を眺めてアテルイやモレに思いを馳せた。朝廷軍が溺死した北上川やアテルイが陣頭指揮した羽黒山が見える。

羽黒山 のろし台 2002年 羽黒山には地元の水沢の歴史愛好家たちが立てた「のろし台」がある。のろしは狼煙とも烽火とも書くが烽火が古いという。代々烽火を守る人がいて火急の時に連絡した。夜は火、昼は煙で信号(合図)を送受信した。狼煙、こちらののろしは狼であるが何故オオカミなのか。以前、地元の歴史に詳しい水沢市議会副議長の佐藤さんから「オオカミの糞を乾燥させてのろしの燃料にしたので狼の字を当てた。オオカミの糞の煙は多少の風になびかず真っ直ぐ上がるから」と聞いたことがある。そこで私は夜ののろしは烽火で昼ののろしは狼煙ではないかと思った。佐藤さんたちは北上川東岸に並ぶ束稲山(一関市)、羽黒山(江刺市)、国見山(北上市)で狼煙をあげて確かめたという。実験考古学と言ったらいいのだろうか。ロマンがある。えみしの時代は東北は正史から消されたり、退治されて当たり前とされてきたので、佐藤さん達の実験は古戦場跡から学ぶ平和への道しるべなのだと思った。


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